Tag: As the day fades
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Woke up before dawn …… – No essay, Easy life.
Woke up before dawn – No essay, Easy life. Woke up before dawn ……, I sit idly by my desk, pen in hand. 今朝は夜明け前に起きた。 目を開くとそこには、茶トラ猫である我が家の猫様のしっぽ。それと枕。昨夜の空き缶、つまみも少々、散乱したピーナッツは昨夜の酒があまりいいものではなかったことを、如実に言い表している。 きっとそうだ。昨夜はきっと、田舎から友人でも訪ねてきて、それで盛り上がったんだと思う。うん、そうだ、そう思い込もう。……友人なんぞ、縁を絶ってから20年目を迎える。会うたびに益体もない、くだらない話題と噂話ばかりで、前向きに何か語り合うこともなく、言葉の端々に過去への後悔ばかりが滲む。そんな集まりが嫌になって、飲み会の誘いを断りだした頃、私は生活が困窮し始めていて精一杯頑張らなきゃいけない頃だった。 最初に頑張ったのは、夢をもう一度見つめなおすことからだった。 口にすれば恥ずかしさがこみあげてくるワードではあるが、夢はしかし生きていく中で、これ以上ないほどに重要な要素だ。 自身のできること、これまでに積み重ねてきたもの、惰性だろうとかまわない。捨てきれなかった習慣。捨ててしまった研鑽。行うことで喜びが溢れたこと。行うことで苦しさを感じたこと。誰と行うかでその狭間を行き来したもの。とにかくそうしたことを、残らず紙に書きだす。 好きなこと、嫌いなこと。好きじゃないけど得意なこと。嫌いだけどできること。 昔馴染みの学校の教科で分けてみたり、舞台俳優をしていた頃の役柄で分類してみたり、振り返りの時間の中でいつしか、それらは大きな塊になっていった。 大好きなのは、空想を膨らませること。世界を一から想像し、創造していく。物語を書くことが、どうやら大好きなようだ。 その物語から曖昧さやご都合主義を排除して、現実味を持った脇役を配置し、その人の言葉を借りて構成しなおしていく。ガイドはシニカルな自分自身の影。 ストーリーとして書き出す自分自身の世界は、実に滑稽だ。 なんて事のない日々が折り重なり、話したことのない人が傍でいて、互いを支えあうような友情や愛情が心を包み込んでいく。 まだろくに独り立ちできていない青年の姿に、昔を重ね合わせ奇しくも懐かしんだりする。あの益体もなく愚痴が大盛りの、友達といたあの頃を。 それはそうだろうとシニカルの奴は、私の頭の中でつぶやく。外に出てSNSでつぶやかれないだけが救いになっている奴だが、昔の友達たちのことをやはり良くは思っていないようだ。 愚痴と一緒に零れ落ちる、明日の可能性と活力 皆の手を借りられたなら、できることは数限りなくあった。あの日あの時に不可能だと一蹴されなければ、叶う希望もいくつもあった。他人に転嫁する責任と行い。そうした後悔が形作る檻。 出ようと思えばいつだって出られるのに、後ろ向きのシニカルさが壁の方ばかり見つめる。振り返ってみればそこには檻さえないのに、勝手な思い込みで目に付く堅牢な壁しか見えなくなっている自分がいる。 頭のどこかでは叫ぶように吠える、明日への渇望、希望への憧れ その声に耳をふさぎ続け、惰性のように辛い日々を繰り返す。そうした生き方を打ち破りたいと思えど、誰か手を貸してと言葉にすらできない。 臆病さがうっとおしい。その癖言い訳は得意とくる。 そんなものどうしようもないね。だったら素直な子供の頃に帰って、駄々をこねるように泣き叫ぶのがいい。地に土下座して人と共にあればいい。疲れたと言える人と共にあればいい。 心を開ける相手を見つけ、素をさらけ出し生きていく方がいい。そうして人と人は繋がり続けていけるのだから、繋がりの中へと帰れればいい。 I woke up before dawn this morning. When I opened…
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As the day fades – No essay, Easy life.
As the day fades – No essay, Easy life. As the day fades, I sit idly by my desk, pen in hand. 昨日見た景色は、朝焼けの山脈と開けていく朝の風景、昼頃まで騒がしい喧噪、そうして夕暮れ時の大通り。大通りでは車の群れが、野生のバッファローみたいに列をなして進んでいった。赤信号の度に停まる行進。 朝の人々の大移動は、野生の動物が水飲み場へと移動するのと変わらない。それぞれに様々な思惑があるのだろう。笑顔の人は少なめに見えたが、多くの人は手にしたスマートフォンへと顔を向け、心ここにあらずといった容だ。 電車の窓から遠く東に、連なる山々の姿が見えた。遠くから通いで会社へと向かうと朝焼けの景色が目から沁み込む。うっとりするほどに美しい景色を眼にとらえ、口から零れる息ひとつ。 電車がやがて降車駅へと近づいていく頃、次第に乗り込む人の数が、ほんの少し増えて、大勢が乗り込んでいるであろう反対側のレールに、ああ遠距離にしてこれだけは良かった。そう思えて仕方ない、小さな安堵が胸に浮かぶ。 ほんの小さな安堵を胸に、それから沸き起こるあてどない怒り。リモートに切り替わってサボる輩の心中を、計ろうと思案するも到底は分からず。 そもそもが仕事というものを、生活のためと考える者の方が多いからかもしれない。楽しんで働ける環境を求めず、苦しくて辛い、けれど報酬の良いものを得たがる。そうして潜り込んだらあとは惰性。如何にして上司にバレぬようサボろうかと思案するのか? そう考える気持ちもわからなくはにものの、それでもほんの少し、考えがよぎる。 なぜ楽しそうな職場がどんどんと減っていくのか? なぜ笑顔で仕事する人々の姿が、このところは嘘くさく感じるのか? なぜ犯罪に加担する仕事が公示されているのか? なぜ悲観的な思考で、人生を造っていく人が増えたのか? そんなことを考えている間に、仕事場へと到着した。今日もすることは数多くある。決めなければならないことも、聞かなければいけないことも、言わなければいけないことも、手を付けなきゃならないことも。 どれも難しく、それでいて楽しい。自分に合った仕事とはそういうものなのかもしれない。片手間で楽にできるものは、いつか退屈をする。そうなればおかしな考えが頭をよぎるのかもしれない。如何に手を抜いて、如何に評価を落とさず、如何に楽をして給与を手にするか。 ほんの少しばかり学ぶ必要があって、ほんの少しだけ練習が必要で、そればっかりに時間を取られることもなく、休日は好きなことができる。 そういう仕事がもっと増えて欲しいと思う。そうした仕事を増やすためにはどうすればいいかを、もっと考えて欲しいと思う。そうしたことを考えられる立場にある人々が、現場をもっと感じられるくらいの低さで、仕事をするようになって欲しいと思う。 そんな感じに昨日は出勤をした。お昼の時間は他の企業と被る時間帯だったので、相も変わらず食事処が列をなして慌ただしく、早めにすべきを済ませ、少しばかりしたいことに時間を割き、学びの時間を楽しんで夕暮れ家路につく。 駅までの道すがら、帰社の時間なのだろうか、多くの営業車に混じってルート配送のトラックや、植木屋の軽トラ、少しばかりのタクシーと高級車。道路がまるで駐車場のように思える時間帯。 そうして僕は帰りの電車へと乗り込み、明日は家からリモートで仕事だと、再び胸に安堵を浮かべる。こればっかりはどう言われても、家で仕事ができる方がいい。いったい誰得でハイブリット化が進んでしまっているのだろうか。 I saw the scenery yesterday. It was the mountain range at dawn and the open…